"Flowers for urban maladies (都市に処方する花束) " - Exhibition archive - HANASAKI Kaya | 花崎 草
 

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2022年7月上旬から《ソノ アイダ#新有楽町》のARTISTSʼ STUDIO 第 5 期レジデンスに参加し、同じく第 5 期に選出されたアーティスト塩原有佳さんと練り上げた共通テーマを中心に、それぞれの美術分野での表現を交差させながら「Flowers for urban maladies (都市に処方する花束)」展を開催しました。
From early July 2022, HANASAKI participated in the ARTISTSʼ STUDIO #5 artist in residency at Sono Aida #Shinyurakucho, and held the exhibition ‘Flowers for urban maladies’, focusing on a common theme developed with painting-based artist, Yuka Shiobara. 

 

3D展示 撮影+ビューイング制作: ARCHI HATCH (徳永 雄太) / 3D exhibition and shooting by ARCHI HATCH (TOKUNAGA Yuta)

 

「Flowers for urban maladies (都市に処方する花束)」展に先駆け、本展の3Dオンラインビューを公開していただきました。こちらのリンクから3Dオンラインビューをご覧きただけます。オレンジ色(塩原)/ピンク色(花崎)の円形ポイントをクリックすると作品詳細がご覧いただけます。また、詳細がポップアップしたのをもう一度クリックすると拡大表示されます。

The 3D online view of the exhibition “Flowers for urban maladies” is available. Click on the orange (Shiobara) / pink (Hanasaki) circular points to see the details of the artwork. Also, click again to enlarge the details Pop-up. Please check this link for the 3D online view>>

 

https://my.matterport.com/show/?m=BYApv4dsfSj&lang=en

 

 

「Flowers for urban maladies (都市に処方する花束)」展

展示作家 Artist:花崎 草 HANASAKI Kaya / 塩原 有佳 SHIOBARA Yuka



会期 Exhibition period:2022年8月5日(金)、8月6日(土)、8月7日(日)/ Aug.5th – 7th 2022
時間 open – close:13:00 – 20:00
会場 Venue:ソノ アイダ #新有楽町 / Sono Aida # Shinyurakucho
住所 Address:東京都千代田区有楽町 1-12-1 新有楽町ビル1階 北側112区画

主催 Organize:株式会社アトム(A-TOM Co., LTD.)
企画 Plan:ソノ アイダ実行委員会 / Sono Aida executive committee
協力 Support:三菱地所 / MITSUBISHI ESTATE CO., LTD.
機材協力:BLACK+DECKER / DEWALT / LENOX / IRWIN

 

画像提供: 株式会社アトム
Photo courtesy of A -TOM Co., LTD.

 

展示のハンドアウトで本展キュレーターの丹原健翔氏のテキストを下記に掲載致します。

花崎草・塩原有佳「Flowers for urban maladies」について ー 丹原健翔

 

1 ソノ アイダ#新有楽町の ARTISTS’ STUDIO 第 5 期では、当レジデンスプログラムでは初の試みである、花崎草と塩原有 佳によるコラボレーションシリーズが展開された。これまでの新有楽町ビルで行われてきたレジデンスでは、二人から三人の作家が制作環境を共有し、外部からのインプットや眼差しと、制作段階から向き合うことで、各作家にとってもソノ アイダのチームとしても新たなものが生まれることが期待されていた。今期ではレジデンス前からコンセプト作りが二人の作家によって着手され、初期段階から花崎と塩原のコラボレーションとしての新作が作られるということが決定していた。そういった経緯もあり、上記のような期待の他にもこれまで以上に複数の作家をお呼びするレジデンスの意義が問われるのであった。

 

2 コラボレーションプロジェクトとしての今期のコンセプト作りはレジデンス前から期間中にわたって作品制作と共に行われ、成 果展へ向けて少しずつ形作られていった。醸成していくようなそのプロセスは二人の作家の間の議論に限らず、僕や運営のメ ンバーの意見も含まれており、そのように多様なテーマや課題、モチーフや記号が重ね合い、実に多層的で体系化が容易で はないコンセプトを生み出すようになるのであった。それに伴いレジデンス後半になるにつれ、そのコンセプトを言語化せず、あくまで感覚的に共有していく場面も増え、ソノ アイダのような、運営とアーティストの距離が近い(または、同位ともいえる)プロ ジェクトにとっては大変有意義な体験になったと考える。一方で、そのような言語化不要論は、本稿のような言語化の機会をも つ者にとっては悩ましいものでもある。本稿ではそういった状況を踏まえ、様々なテーマ性が複雑に重なり合う本レジデンスの コンセプトを一つ一つの要素に分解することで、できる限り言葉で意味を残そうとするアーカイバルな取り組みであると同時に、 鑑賞者が本展からそのコンセプトを読み解くプロセスの中で役立つ参考資料のような位置づけになればと思う。本稿はパズルピースのように数字が当てられた段落によって整理されており、括弧内で別の段落に誘導する箇所もある。

 

3 今期コンセプトである「Flowers for urban maladies(都市に処方する花束)」は、花崎と塩原がレジデンス前から互いを SNS などで見つけ連絡を取り、それぞれの過去作を共有しながら長時間のオンライン会議を重ねた結果として顕わになった様々なテーマやモチーフを土台に展開されたものである。主な表現媒体の異なる二人の作家活動の間で、共通項として見い だされた様々なモチーフやテーマは、Google Docs 上で共有され、レジデンス期間中もそれら要素たちは繰り返しまとめられ ながら発展していくのであった。芍薬(しゃくやく)と金襴草(きらんそう)といった万能薬の象徴となる花のモチーフ、「花売り」とい うかつては有楽町のエリアにも存在した職業、1970 年代 LA でフェミニズム運動に連動するように支持されアート・ムーブメン ト化したパターンアンドデコレーション(Pattern & Decoration)、現代を取り巻く社会問題たちに対する美術の作用(及び逆作 用)、主従関係の逆転…これら要素たちは、幅広く多様でありながら、なにか中空構造的(→13、14)に見えない中心核を示しているのであった。本レジデンスとその成果展では、そのコンセプト(=言語化できない中心核)を作品表現と展示表現によっ て示すことが目的であることはコラボレーションを開始して間もないころから共通理解となっていたと記憶する。

 

4 コンセプトをどう表現するかという美術の本質的な命題を二人の作家がレジデンス期間中に取り組むなかで、その輪郭は段階的に空間に漏れ出るのであった。その際、言語化や交通整備が非常に困難な意味の連なりを、ただそこにある、と理解することは許されるべきなのかと考える議論があった(→8)。意味が交差しながら同空間に存在することだけで鑑賞者にもたらされ る感覚を、コンセプトと呼び、その感覚の制御を行うことは、言葉を必要としないコンセプト作りと言えるのではないだろうか。

 

5 空間を製作期間中も大きく占めた、塩原が本レジデンスで制作した《四大元素の中の逆作用とグレーゾーンと花売り》と名 付けられた塩原の4点の大型絵画は、本コラボレーションのシンボルといえる芍薬と金襴草の花束のモチーフが等間隔で繰り 返し描かれ、布の生地や壁紙のパターンを彷彿とさせる。また、近づいて観察すると、花束のモチーフの余白に、花崎のパフォ ーマンス(後述)の様子を撮った写真をベースにしたドローイングが白いパステルで描かれていることがわかる。塩原は本シリ ーズについて、1970 年代後半で米国 LA にて現れた、平面性を強調するように装飾を扱う美術動向である「パターン&デコレーション(以下、P&D)」の引用をしているという。多くの P&D に関連した作家は、手工芸や内装などでの装飾性のある表現が ファインアートから遠ざけられ周縁的なものにされた歴史的背景に対抗するように装飾性を全面に出した平面作品を制作して いた。P&D の中心的人物であったヴァレリー・ジョードン(Valerie Jaudon)とジョイス・コズロフ(Joyce Kozloff)は、当時のエッセイ「Art Hysterical Notions of Progress and Culture(1978)」で、装飾に対する美術からの批判的な眼差しのルーツに、女 性性や非西洋美術に対する差別的な構造が存在することを示すのであった。実質的に P&D のムーブメントのマニフェストのようなものとなったジョードンとコズロフのエッセイは、言語化を通して P&D の背景にある作家たちのアティチュードを表明する 手段でもあった(→1)。78 年に批評誌に掲載されたエッセイでジョードンとコズロフは、高貴な美術において、進歩、アクショ ン、暴力、パワー、偉大さ、革命などの言葉が用いられることが多いのに対し、感傷、オーナメント、模様、パターン、装飾、壁 紙、家庭、女性、子供、民族といった表現が低俗なアートと関連して使われてきたと指摘する(→6)。確かに、美術業界にて武 装化の表現や(岡本太郎による「アートは爆発だ」は顕著な例)、手工芸と純粋芸術が一線を画す状況は今もある。パターンア ンドデコレーションのムーブメントは、そのような構造的排他性が形成された過去を見える化するとともに、”低俗なアート”として これまで西洋社会では見放されていた表現方法を改めて批評対象に昇華する意味があった。今回の展示における塩原の作 品を考えるにあたって、この点は非常に重要であると考える。

 

6 例えば作家のレオ・トルストイは「真の芸術は、愛情深い男の妻のように、装飾が不要なのである。一方で偽の芸術は、娼 婦のように装飾を必要とするのだ」と言い残している。女性を芸術の比喩に使うあたりや、また、正しい女性像は男性の妻であるといった考えが見られるトルストイの言葉は、このようなキーワードたちの関連性やそれを当たり前のように受容している背景を示す。この傾向はトルストイやワーグナー、ピカソといったモダニズムを牽引してきたいわゆる偉人たちによって広く(そしておそらく無意識的に)支持されていた。

 

7 花崎の今期における作品をはじめ、花崎の《Sur-vivant》パフォーマンスシリーズに含まれる作品たちは15年近くに渡って、 都市空間にて野良犬や花売りといった姿を模してかつてそこには存在した物事や社会性を再生し、現代とのズレやつなぎ目に着目させる。花売りという、今では童話の中でしか現れないような人々もかつては有楽町にもいたことを、レジデンスに見学しに来た方から聞いたと花崎はいう。ドライフラワーの花売りを現代の有楽町の町で行うパフォーマンスを実施した花崎の《有花 -路上の花売り-》は、そういった失われた社会の姿を表現する作品である。パフォーマンスを記録する映像作品では、花束をまとめる不織布に塩原の花束のモチーフがスタンプで装飾され、口紅などの化粧品でメッセージが一つ一つ書かれる姿も映され る(→5)。そのような丁寧な所作を通して作り上げられた花束は町歩く通行人に渡される。かつては有楽町でも歩き回りながら 花束を販売していた花売りたちのゴーストと花崎の姿が重なり合い有楽町の時間軸が露見される本作は、同時に本作映像に映る通行人の面白げな表情から現代における花売りの違和感をも示す。社会の発展とともに追い出されるように消えていったであろう様々な人や職業が、今は消費対象となって面白がられ人々に歓迎される姿に我々鑑賞者が感じる滑稽さみたいなものは、花崎がパフォーマンスを通して表現する主題でもあると考える。

 

8 現代の我々はなにかの渦中にいる。国際情勢と共に日に日に姿を帰る争い事、蔓延するウイルスなど非人間な存在への恐怖、個人の思想と思想がぶつかり合う臨界点からこぼれ落ちる苦い蜜ーー本レジデンスのコンセプトのきっかけとなった花崎の《幻の万能薬》シリーズはそういった現代における不安に対して”処方”される(→15)、架空のピル(薬莢)を模した立体及び NFT 作品である。ピルには「CONFIDENCE」や「CARE」といった現代人が渇望するものが印字されており、まるで飲めばすべてを解決できる幻を具現化したと言わんばかりの楽観性が認められる。ただその背景には、現代を生きる人々の社会に 対する諦めや、幻へすがりたくなる気持ちがあることは留意したい。“よくわからないけど、飲めばすべて大丈夫になる”万能薬 があるとしたら、どんな価値を持つだろうか。そして、それを他人にプレゼントしたり贈られたりする行為は、どんな感情や想い を含める器となるのだろうか。

 

9 本レジデンス後半では、プロジェクトの一貫として 3 日間に渡って現代を生きる魔女たちのためのコンビニ《WM》のポップア ップ及びワークショップが行われた。そもそも現代魔女とはなにか。《WM》を主催するzaqi 氏から勧められたエーレンライクとイングリッシュによる『魔女・産婆・看護婦』(長瀬久子訳、95 年)では、女性医療家の歴史と、それが西洋の発展とともに迫害・ 抑制され、「魔女」として扱われた過去を論じる。医療免許や医療の学問が確立する前から、村や町で医師・カウンセラー・産 婆・薬剤師を努めてきた女性医療家たちは、男性至上主義であった(または、いまだそうである)学問によって周縁化され、キリスト教などの普及でさらに「ずる賢い悪女」のようなイメージを刷込まれ、魔女狩りという虐殺対象となるのであった(→11)。現 代における魔女の姿や活動は多様で広義的でありつつも、そういった歴史を踏まえて現代において改めて失われた価値や意 味性をリバイバルさせる思いが現代魔女を自称する人たちに支持されている。かくいう僕も当初花崎から《WM》のプロジェクト参加の提案があった際、無知ゆえに現代魔女と聞いて、一種の胡散臭さや不気味さを感じていた。そのあと zaqi 氏及び花崎による説明と上記の書籍の読み込みにより、そのアクティビズムの要素に大変意義を感じるようになったが、これもまた、いわゆる緑に光る液体を混ぜ合わせる黒服の魔女像などのイメージで、自身がそういった刷込みを気づかないうちに受け入れて いたことを意味する。そのような意味でも、花崎の作品に現れる万能薬の花束を売るかつての花売りの姿の再演と同様に、現代魔女とはその現代との接点にて、その意義や当事者の意志を露呈させている。

 

10 上述の塩原の絵画作品に見られる模様のようなモチーフの反復は絵画を奥行きのある窓ではなく、壁紙のような平面であ ることを示唆する。それは言い換えれば、絵画という媒体を、覗き込むものから、対峙するものに変換しているともいえるでは ないだろうか。そして鑑賞者は塩原の平面(≒壁)と向き合い続けて初めて、光の絶妙な反射具合などで白く塗られた油絵の具の上に線で書かれたパステルでのドローイングはじんわりと顔を出す。white on white と塩原は名付けるこの特有の表現は、 シュプレマティズムにおけるマレーヴィチ(Malevich)の同名の絵画作品をはじめ、米国抽象表現主義におけるラウシェンバーグ(Rauschenberg)からライマン(Ryman)まで、近代美術においての様々な白色を用いた表現を引用した言葉である。一方で、塩原の活用は決して純粋性や身体性を追求する過去の偉人たちの踏襲ではなく、むしろその表現による複雑性を狙いに していると考える。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだと、ニーチェ(Nietzsche)は個々の内心に存在する” 怪物”と対峙する際の忠告の言葉を残している(→11)。塩原の平面(≒壁)と鑑賞者が向き合うプロセスの中でまるでからくり絵のように少しずつ姿を現す白パステルで模写された花崎の花売りのパフォーマンスは、結果として P&D の平面性に内包される様々な思いやアティチュードと向き合うことで初めて見えてくる意味やイメージと重なり合うことは偶然ではないのだ。

 

11 ニーチェは『善悪の彼岸』(1886)でこう書く。
– 怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。
意訳的な解釈ではあるが、ここでニーチェの言う”怪物”とはそれぞれが持つ内心の闇である。俯瞰の視点(のぞく視点)は同時に、のぞかれる対象にもまたのぞかれ、自身を危険に晒すことなく怪物と対峙することはできないと彼は書く。補足までに、ニ ーチェの書物では一貫して道徳による自己正当化を否定する。それは、キリスト教などの信仰、ないしは支配者の権力に対する批判でもあった。支配欲や権力への意志が自己正当を求める先に道徳の概念は存在し、いずれは人類が克服せねばならない概念であるとニーチェは書く。この意訳に加えいささか飛躍する付け加えをするのであれば、ここで指す道徳というもの は、本展で扱う様々な要素に対して抑圧・周縁化を行ってきた武器を意味することも可能だと考える(→5、9)。本展を考えるにあたって、武装化された抑圧装置と向き合うことは自らをそのリスクに晒す覚悟を必要とするということが挙げられ、そのことを踏まえて二人の作家の展示の意味性を考えるべきである。

 

12 塩原と花崎の本コラボレーションにおける作品には、共通してこのモチーフの反復が見られる。成果展の三日間実施される花崎のパフォーマンスでは、《有花 -路上の花売り-》の映像作品と連動するように、花売りの姿になった花崎の身体表現が反復するように繰り返される。歴史は繰り返すと言わんばかりに、または一人の人間の半径を超えた社会性を意味するように、花崎の映像作品に映る花売りの姿に加え、成果展のために作られた新たな映像に映る姿、自身をカメラでオンライン配信 することでディレイを起こして映る姿、パフォーマンスを行う花崎自身の姿、そして花崎が各映像の前を通るときに投影される影の姿と、同時に複数の姿が鑑賞者の前に現れる。15 分ほどのパフォーマンスを鑑賞する中で、それは不思議とその場所における過去現在未来に渡って共振共鳴するゴーストのエコーのような、呼応を感じられる。反復(=レペティション)は塩原の平面作品においても、P&D の引用に加え(→5、10)、時間の経過を意味する。つまり、同じ所作が制作の中で繰り返されていく ことは、その所作の歴史を築き上げることと同義である。現に、同じアクションを繰り返す中で、人々は学びや省略を行っていくだろう。繰り返されるアクションの最適化の中から本質が特定されていくプロセスを所作と呼ぶと、ペインティングという所作お よび平面の制作工程には花崎と同様、時間軸上の行き来を必然とするのである。

 

13 塩原の作品が花崎のパフォーマンスの光景 white on white で描き、また塩原が反復させる花束のモチーフを装飾した不 織布で束ねられた花束をパフォーマンスとして花崎が町中の人々に売る。こういった双方へ作用する作品群は、コラボレーショ ンの試みによって初めて可能になる。主題があり、それが別作品に発展や応用といった形で作用することは特筆するべきことではないが、作用がまた再び逆作用を起こし、双方の作品に新たなコンテキストが生まれる今回の試みは、複雑にも同じ円を描く舞いのように軽快で、ドーナッツ型にコンセプトを囲む重要な要素となっている(→14)。このように、多層的に意味が交差し、重ね塗りの連続の中で輪郭をもつものが、本レジデンスのコンセプトとも言えよう。

 

14 余談だが、心理学者の河合隼雄はこのドーナッツ型に均等を保つ姿を古事記などの神話に見出し、中空構造と名付けた。西欧構造と比較する『中空構造日本の深層』では、河合はこう書く。 中心が空であることは、善悪、正邪の判断を相対化する。統合を行うためには、統合に必要な原理や力を必要とし、 絶対化された中心は、相容れぬものを周辺部に追いやってしまうのである。空を中心とするとき、統合するものを決定 すべき、決定的な戦いを避けることができる。それは対立するものの共存を許すモデルである。

 

15 つまるところ、本レジデンスのコンセプトは何なのか。「Flowers for urban maladies(都市に処方する花束)」と名付けられたコンセプトは、都市や現代社会に対する投げかけであり、また、忘れられた(忘れるよう仕向けられた)価値や意味に耳をすませ、改めて正邪の判断と向きあうことを求める表明ともいえる。交差する意味やモチーフの反復、空間に広く広がる色鮮やかなイメージたち。花崎は本コンセプトの初案であった「都市の病に贈る花束」という表現に対して、贈るという言葉は不適切であると言い、処方という言葉を用いることになった。たしかに、本展は優しさや鮮やかさをコンクリートジャングルである都心に持ち込んだ表現だと捉えることができるが、それは同時に残酷にも都市の病を露見させる装置でもあるのかもしれない。処方の先の治療や快復については一切触れられない本展もまた、現代社会の姿を現すのかもしれない。

 

16 もの新しい取り組みとして、僕も初期から花崎氏と塩原氏と議論を重ね(余談だが、実際に付箋を重ねていく形で議論は進めた)、共にコンセプトの輪郭の粒度を上げていくのであった(→2)。欲を言えば、びしっとコンセプトを言語化できることも期待したが、こればかりは言語化してはもったいないほどに多層的で細かいニュアンスが前提にあったことから、早い段階からそれは見切るのであった。その代わりに、本稿のようなパズルのピースを無造作に並べ、鑑賞者にその意味を脳内で組み立ててもらう方法を取ることになった。これは、本来言葉というものを扱う者としての責任を放棄していることを意味していることも理解しながらも、僕自身のキュレーターとしての実力不足として受容いただくことを願うばかりである。最後に、花崎草さんと塩原有佳さんの制作プロセスから得られた学びは個人的に非常に多く、感謝の気持ちに帰結する。共にコンセプトを作っていくなか で、少しでも僕やソノ アイダからのインプットがコンセプトの形に影響を及ぼしたとしたら、それはありがたい姿であると考える。